自発性ってなんじゃ?

えー、前回の「ゲームの面白さ」で「自発性」という言葉が頻繁に出てきました。
ここでは「自発性」ってなんじゃ?について考察します。


自発性ってよくわからないですね、これは。だから昔から観念論と唯物論とかの争いとかもあります。
「脳は物質なんだから「自発性」なるものなんてありはしないんだ」とかいう話です。


僕も、何か「自発性」とかいうゼロから何かを生み出すような不思議な創造力みたいなのは無い、と考えます。
そうではなく「帰属」の問題として考えます。


帰属というのはつまり、何か「他でもありえた」不確定な出来事が起きた場合に、その原因を環境に帰属するか、人に帰属するかという問題のことです。


しかし、何でこんな環境/人への帰属の区別が出てくるのか。「自然の作用/人為」の違いは?
環境に帰属できる場合にはそれは「誰がやっても同じ」ということです。
そうじゃない場合に限って、それはその人に帰属される。その人によってしか説明できないわけで、つまりその人の個別性=自発性が提示されるわけです。


まあ細かく言えばもっとややこしいんですが、大雑把に以上の枠組みで「自発性」を考えます。


例えばゲームをやるとしても鞭で打たれながらやらされている(環境に帰属される)と感じている場合には、面白くないでしょう。自分なりの自発性が発揮できていると感じられる場合に、面白いのだと思います。


同じように、「その状況に置かれれば誰がやっても同じ結果になる」ような場合でも、自発性を発揮するチャンスは無いです。


自発性を発揮するという事はつまり、「普通人はそうしない」「誰がやってもそうなるわけではない」「その状況においてそうする必然性が無い」ことをするのが「この私なのだ!」ということを自分でも確認できることです。誰もがやれて当然なことや、選択と結果がルーチン化されていること、つまり自分なりの自発性を発揮する余地が無い場合には、面白くないでしょう。


つまり、多かれ少なかれゲームをやるという行為は「俺という奴は環境に従属した機械人形のようなものじゃなくて、ちゃんとした自律的かつ自発的な存在なのだな」ということを確認する契機を伴っていて、それが面白さの一つの構成要素なんだろうな、と思っています。


ただこのことを「自己提示」の観点から見ると、もう少し話が複雑になるのかなと思います。