社会批判の落とし罠

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/08/post_a436.html

事情を知らない方には何だコリャ、と思われると思いますが、
いきさつは省略します。


濱口先生が本田先生に対して抱いた違和感。
これは僕も、例えばフーコー論者、マルクス主義者、ブルデュー論者などに対して
つねづね感じていた違和感でした。


その問題の所在を一言で言えば、こうなります。

現実を支配として批判するには自由は疎外されておらねばならないが、それを「逸脱」的現実として批判できるためには、現実は「別様でもありえたであろう」ものでなくてはならず、そのことは自由を要請する。

なんのこっちゃ?と思われると思いますので、もう少し補足。

①もしも現在の抑圧状態をあまりにも強固に描きすぎ、もはやどうあがいてもそれを変革することは不可能なところにまで行ってしまえば、現状を「他でもありえた」逸脱的現実とみなすことができなくなり、むしろ「唯一無二の真実」と記述する結果になるだろう。


②そうではなく、支配の現状が「唯一無二の真実」ではないのだとすれば、現状は「人間の選択次第では別様でもありえたであろう可能性の一つ」でなくてはならない。しかし現状に関する自由度の存在を認めれば、支配状態の強固さに関する印象は弱まるだろう。


例えば、ブルデュー
彼は不平等がいかに巧妙に、かつ根深く、強固に、前意識的なレベルで埋め込まれた行動様式によって再生産されているかを「暴露」しました。
その結果、「なぜ不平等がよくないことなのか」に関する基盤まで掘り崩しかねない結果になりました。
不平等が批判されるべきとすれば、それは「別様でもありえた」のでなくてはならないからです。


例えば、フーコー
彼は、社会をくまなく埋め尽くす言説権力が、我々の内面深く浸透し、「アイデンティティ」という型へと人びとを型にはめ・同質化し・均質化しているのだと主張しました。
その結果「なぜそれが善くないことなのか」がよくわからなくなりました。
もしも「実際に」我々の「主体性」がすべからく権力作用であり「構築された」のだとするなら、それは真実であって批判してもしょうがないことだからです。
だからフーコー論者たちはみな、「だからこそ、そのような権力作用を逃れるような自由のあり方を理論化することが急務なのだ」と唱えました。


彼らはみな、その作業に成功すれば、当の現状診断の妥当性が掘り崩されるだろう、ということには気付きませんでした。


彼らは、「現代社会では人々はみな普遍的権力作用によって同質化・規律化されているのだ」と述べつつ、「そのような権力作用は不可能なのだ」「本来人々は偶然的で多様なのだ」ということを証明しようとしました。


強固な抑圧的現実として現状を描き出した上で、それを変えうる「変革主体」をどこかに期待する。
そこで、社会を構成し変えうる主体性を理論化すると、今度は「支配の現実に盲目的だ」「楽観的だ」と批判されるわけです。


たぶん、社会理論の80%はこういうやり取りでできあがっています。