ゴフマン

まだうまくまとめることができないんですが、いつまでも先延ばしにはできないので、一応試論的にゴフマンの「ゲームの面白さ」をまとめてみます。


「ゲームの面白さ」を論じることによってゴフマンが明らかにしようと試みているのは、彼が「出会い」と呼ぶ社会関係、situated activity systemのメカニズムです。
まあ、別に難しく考えることはなくて、「出会い」というのは対面的な社会関係のことだと言って差し支えありません。


はじめに彼の結論を挙げておきます。抽象的でわかりづらいですが。

「出会いのダイナミックスは、より広い世界から出会いを選択的に切り離す環境―維持のメカニズムの機能と結び付けられている」

これが何でゲームと関係あるのかと思われるかもしれませんが、それはあとに見るとして、まずゴフマンによる成功するゲームの定義を見ておきましょう。
彼によれば、成功するゲームとは

初めに未定である結果を持っていて、その限界の中で外部の世界と関連した特性を発揮することを最高に可能にするようなゲーム

だとされます。以下このことを見ていきましょう。


まず一般にゲームの面白さは「不確定さ」から来るとされます。しかしゴフマンはそれだけでは不十分だといいます。

結果が未定であることは、実際に人はプレーそのものを見定めなければならないことになる。プレイヤーが交替したり組み合わされたりする動きによって造られながら発展していく線が参加者の注目を要求できる唯一のものとなる。それによってプレイヤーはその場のリアリティを構成し、彼らをゲームに夢中にさせるゲームの力を容易に作ることが出来る。

不確定さが重要なのは、それによって
①プレイヤー全員が一つの焦点を持つようになり
②そうした一つの焦点のなかで各プレイヤーのプレーはひとつの「線」いわば「共通の歴史」を積み重ねていく。
③その歴史に関与することによって、人は、その歴史に寄与したプレイヤー全員といわば同じリアリティを共有することになる


重要なのは、「プレイヤー全員が共有するリアリティの歴史が、各人の自発的関与に応じて不確定に変化しうる」ということです。
ここに、ゴフマンの考えるゲームの面白さの一つの核心があります。つまり、私以外の人びともまた関与している一つの現実が、私の貢献に応じて変わりうる、ということです。


しかしそれだけではありません。
しばしばゲームの面白さは「不確定さ」以外に「外部での特性が出会いの中で公式に表現されること」だともされています。
しかしゴフマンはこれに対しては「しかし、しばしば上手なプレイヤーがあらゆる能力を発揮しながら飽きてしまうことがある」と指摘します。


といっても、外部の特性を完全に否定するわけではありません。
もしも、ゲームの外での自分の特性や現実と完全に絶縁されてしまえば、人はそもそもゲームをやりたいとは思わないし、あまり本気にもならないでしょう。


例えばポーカーなどの掛け金の額について「賭け金の適正な額について人々が考えるとき、彼らは金に関する興味がゲームに入り込むことが出来る背後の一種のスクリーンを探しているものである」とゴフマンは述べます。
つまり、あまりに賭け金が低いとゲームに関心を持てず、あまりに高いとゲームを「真面目に」受け取ってしまうわけです。


ここで問題になっているのは、それが遊びで済む程度かどうか、というわけではない、とゴフマンは述べます。

個人が、それ自体としての世界であるその出会いに夢中になることが出来るように、彼の関心にかかわる外的な牽引力を選択的にチェックすることができるかどうかという問題


ここに関わるのが「変形ルール」と「具現化されるリソース」の問題です。


具現化されるリソース、というのは、ややこしい言い方ですが、例えば将棋の駒を考えてください。将棋というゲームを離れれば、駒は単なる木の塊ですが、それはゲームの内部では一定の役割と意味を与えられています。
だからその役割と意味を満たす限りで、それは別に木でなくても良い、例えば代用品として消しゴムを金の代わりに使うといったことも可能です。


同様に、ポーカーの際にお金の変わりにチップを使うといったことも同じです。
要するに、そのゲームのなかで、ゲームの進行に影響を与えるものとして意味づけられたもの、これが具現化されるリソースです。他にも、具現化されるリソースには役割も含まれます。


さて、ここで生じるのが「具現化されるリソースが、それぞれの焦点の定まった集まりの中で参加者の間でどう配分されるかという問題」です。
まずこの配分の問題に際しては、参加者の特性が配分を決める手段として用いなければならないでしょう。
ここで、ゲーム外の世界における特性はどうしてもゲーム内に入り込んでしまいます。

「外部に具現化されている事柄は、ほとんどの出会いにおいてある種の公式の位置と重きが与えられ、その場で公認された要素としてあらわれる」

「篩と同じで出会いの障壁は、外部に基礎を置く事柄を出会いの中に少しは侵入させてしまう」

しかし、例えば晩餐会での席順のように、ある程度外部の要因(地位の高さ、序列など)によって影響を受けるとしても、しかしそれがどのようにその出会い(晩餐会)のなかで配分されるか、については、一意的に決まるわけではありません。

ほとんどの場合、出会いの中で完全に具現化されるリソースは、その特性をより広い世界で分配させているパターンと完全に照応するパターンで配置することはできない。

この場合で言えば、テーブルの二番目の名誉ある席は、その人の社会的地位が来賓とどんなに近かろうと遠かろうと関係なく、第二番目の地位に行くことになるわけです。

「外部的に具現されている諸属性にたいする障壁は、堅い壁というよりも、むしろスクリーンのようなものであり、このスクリーンは、それを通過するものを単に選択するだけでなく、変形させたり修正したりする」(23)

このスクリーンが、「変形ルール」と呼ばれているものです。
単なる木の塊や消しゴムを将棋の駒に、紙切れをチップに、席の右左を地位の高い−低いに、それぞれ意味を与え、それによって、その出会い以外の時と場合とは異なる意味をその出会いの内部で与えます。
この「変形ルール」は「無関連のルール」とも関わっています。無関連のルールというのは、出会いの外部の現実が一端は無関連なものとされるということです。


問題は、ではどのように変形ルールを定めればいいのか、なわけです。
一言で言えばそれは、外部の特性をある程度持ち込むことを可能にしつつ、しかしゲーム内の結果が完全に外部の特性によって左右されてしまうのではないようにすること、ということになります。


これはどういうことなのか、ということですが、ここでまず、ゲームに限らず出会い一般において、変形ルールに対して人が気楽さを持つときと、気まずさを持つときがあるとゴフマンは言います。
まず気まずさを感じる場合とは、「自身の定義と状況の定義が一致しない」場合であると言います。そこではその人は変形ルールによって関連がない、非現実的と宣言された事柄に自発的に没頭していたりしています。


例えば、家庭教師をしている時に勉強をしようとしない生徒に対して、自分でも嘘くさいと思いながらも「社会に出るときに困るから勉強しなさい」などと叱る場合を考えてみましょう。
この「教育」という出会いのなかでは、一定の変形ルールによって自分とその子は「教師」と「生徒」という地位を与えられており、そして「勉強すること」がどういうことなのかが意味づけられているわけですが、ここではそうした意味づけと自分自身の「勉強すること」についての定義が一致しないわけで、このような場合にはやってても面白くないし気まずい感じを受けるでしょう。


では気楽さを感じる場合とはどういう場合かというと、ゴフマンによれば
「その変形ルールを維持することに彼がかかわっていると感じているとき」
だと言います。つまり、
①私に自発的な関与の余地があり
②そうした私の自発的関与によってはじめて変形ルールが維持・定義される
ということです。


こうして、ゲームの面白さがはっきりと定義されます。それはつまり

変形ルールを自発的に維持することが出来るときに起きる

ということです。


そのためには
①変形ルールと一致する自発的関与の配分を作り出す
あるいは
②変形ルールのほうを自発的関与の分配と可能性に適合するように修正する
※ハンディをつけること、熟練者の制限、掛け金を制限することなど。
のやり方がありますが、いずれにせよ以下の条件が満たされねばなりません。
まとめもかねて整理します。


①全プレイヤーに自発性を発揮する余地があること。そのように資源を配分したり、役割を規定するルールを定めること。この場合で言えば、ゲームの進行に全員が何らかの自発的に貢献を行う余地があるようにすること。
②なおかつ、そのゲームに人びとが関与する気が起きないほどには、外部の特性(プレイヤーの能力、社会上の地位、職業、所得など)と断絶していないこと。
③①②を満たすような変形ルールの結果、ゲームの帰結が特定の誰かによって左右されたり、外部要因に完全に左右されるということがなくなり、全員の自発的な貢献に応じて不確定に揺れ動くことになる。
④この全員の関与の間で不確定に揺れ動く帰結が描きだす「線」、つまりゲームの歴史が、プレイヤー全員にとってのリアリティを生み出すことになる。
⑤この「ゲームの中で生み出されたリアリティの歴史」に自発的に関与することによって、プレイヤーは全員に共有されたリアリティに影響を与えることができる。同時に、そのように自発的に関与することによって、各人はそのゲームのリアリティにいわば自分をしっかりと結び付けていくことになる。
⑤こうして、ゲームの成り行きによって生み出されたリアリティの維持・創出に人が「夢中になれる」、つまり、そうしたリアリティが彼の自発的関与によって変化するというだけでなく、そうした自発的関与によって彼がいわば自己をその世界のリアリティと結び付けていき、そうした歴史の不確定な成り行きに自己を(ある程度)一体化させることができたとき、「面白さ」が感じられる


ということになります。


長いですし、あまりうまくまとまってませんが、とりあえず以上にしておきます。今後ぼちぼち手直ししていってもっとわかりやすくしたいと思います。
また、このことから僕が言いたいこと、考えたいことがどういうことなのかについても、またいずれということで。